カントから学んだ思考の態度|黒木勝巳マーケティング・広報事務所【InShift】

カントから学んだ思考の態度

何か考えるとき、何かを見たとき、無意識的に常に哲学的思考が傍にあるなと、つくづく感じています。だからきょうは、哲学について考えてみました。

私が学生時代にイマヌエル・カントを専攻したきっかけは、ハインリヒ・ハイネの『ドイツ古典哲学の本質』を読んだことでした。ハイネは『精神現象学』の著者ヘーゲルの弟子であり、『資本論』の著者マルクスの友人でもあり、詩人として有名ですよね。

ハイネは、カントの著作である『純粋理性批判』が、これまでの哲学をすべて破壊し、ドイツ思想の源泉であると描写しています。フリードリヒ・パウルゼンは、「すべての哲学の流れはカントという巨大な貯水池に流れ込み、そこからまた新たな大河となって流れ出していく」と表現しています。カントを理解しなければ、『精神現象学』も『資本論』もヴィトゲンシュタインもニーチェも私には理解できないと考えたからです。

「哲学」という言葉は、日本語では独特の使われ方をすることが多いように思います。「私の哲学は〜だ」「あの人には哲学がある」。こうした表現は、人生観や信念、生き方を指す比喩として用いられます。しかし、ここで扱いたい哲学は、その意味での哲学ではありません。

私が学んできた哲学は、個人の価値観を語るための道具ではなく、思考の前提や構造そのものを対象にする学問です。何が正しいかを主張する前に、なぜそれを正しいと判断したのか。どの概念を用い、どの順序で考え、どこに暗黙の前提を置いているのか。その構造を問い直すこと。それが学問としての哲学だと捉えています。

「哲学」は枠組みを思考する

私のこの線引きを、あらかじめこのコラムでは、明確にしておく必要があります。
哲学を生き方や信念の話に還元してしまうと、議論は必ず主観や好みの領域になります。そうなると、検討も反証も成立しません。学問としての哲学が扱うのは、個々人の「考え方」ではなく、人が考えるときに用いている枠組みそのものです。


哲学史の中でカントが占める位置は特異です。それ以前の哲学が、「世界とは何か」「存在とは何か」を正面から扱っていたのに対し、カントは問いの向きを変えました。人間は、どのようにして世界を認識しているのか。

この転回によって、哲学は大きく姿を変えます。
経験だけで知識は成り立つのか(イギリス経験論)。理性だけで世界を説明できるのか(大陸合理論)。カントはそのどちらの考え方にもつかず、人間の認識が成立する条件そのものを問いました。その成果が彼の主著『純粋理性批判』です。

続く『実践理性批判』では、「人はどのように行為すべきか」が扱われます。
ここで問題になるのは知識ではなく倫理です。人はなぜ「~すべきだ」と考えるのか。その根拠を、感情や慣習ではなく、理性の構造から捉え直そうとします。

カントの三批判書が扱う問い

『純粋理性批判』と『実践理性批判』、そして『判断力批判』は、カントの三批判書と言われています。彼が使う「批判(Kritik)」という言葉は、単に物事を否定するという意味ではなく、「人間の理性の能力と限界を徹底的に探求し、その認識の可能性と妥当性を吟味する哲学的な営み」と言われています。

自然を「因果律に支配された決定論的世界」とした『純粋理性批判』、人間を「自由な道徳的主体」と定義した『実践理性批判』。しかし、自由な意志(道徳)が、決定論的な自然界(現実)の中でどのように実現可能なのかという説明が不足していました。
では普遍的な原理と、個別の現象は、どのように結びついているのか。ここでカントが扱うのは、「原理があらかじめ与えられていない状況でも、人は判断せざるを得ない」という人間の条件です。『判断力批判』では、カントはこの能力を「反省的判断力」と呼びました。

判断力とは、答えを生み出す能力ではありません。
人は現象を前にしたとき、それを意味あるものとして捉えなければ理解できない。自然や出来事を、「あたかも目的があるかのように」見なす。その合目的性の仮定なしには、私たちは世界を整理することすらできない。第三批判(判断力批判)は、その人間的な判断のあり方を扱っています。

私がこの書に強く惹かれたのは、そこに「即断を戒める態度」が明確に示されていたからです。
原理が与えられていないからといって、判断を放棄することはできない。しかし、拙速に一般化することも許されない。その宙づりの状態を引き受けながら、考え続ける。この姿勢は、哲学の中でも特に実践的な思考態度だと感じました。

判断力批判から引き取れる思考の態度

カントはまた、「人間学」という講義を行っています。
そこでは抽象的な形而上学ではなく、人が日常の中でどのように考え、迷い、選択しているのかが扱われます。哲学は決して現実から遊離した学問ではない。人が判断を迫られる場面のすぐ傍にある。その感覚は、私にとって非常に重要でした。

この考え方は、現在の私の仕事に強く影響しています。
売上が伸びない、広報が機能しない、組織が疲弊している。そうした状況に対して、すぐに正解やノウハウを当てはめると、かえって問題が深くなることがあります。なぜなら、その答えが立っている前提自体が、現場の現実と噛み合っていないことが多いからです。

私はまず、起きている現象を見るようにしています。
評価や結論を急がず、「何が起きているのか」を受け取る。そのうえで、どのような前提や構造が、その現象を生んでいるのかを考える。そこからようやく、原則や構造を言葉にしていく。この順番は、判断力批判で示された思考の態度を、私なりに引き取ったものです。

私の本の中で「構造」という言葉を多用しているのも、そのためです。
構造とは、正解を保証する装置ではありません。拙速な判断を避けるための足場にすぎません。思考の順番を誤らないための、手すりのようなものだと思います。

哲学は、直接お金を生む学問ではありません。
しかし、「どの前提で判断しているのか」を問い直す力は、仕事や経営、広報の現場で確実に生きています。少なくとも私は、その力に何度も助けられてきました。

帰納法によって現象を捉え、演繹によって解決方法を導出する。

ここで述べた哲学は、私の生き方や信念を語るためのものではありません。
私自身の価値観を正当化するために、哲学を持ち出すつもりもありません。ただ、私がどのような思考の訓練を受け、なぜ即断を避けるのか。その背景にある学問的な来歴を、ここに記しておきたかった。それだけです。

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